昭和48年 東京青果へ初出荷
品種の統一を決断&厳しい系統選抜
にんにく生産部会が結成されて大きな決断をした。
それは、品種の統一と系統選抜である。
にんにくの品種はホワイト種とピンク種が栽培され、
ホワイト種でも福地ホワイト種と岩木ホワイトなど栽培された。
そこで、
- 病気に強くて栽培し易いピンク種を残すか、
- 品質は良いが病気に弱そうなホワイト種に統一するか
が議論された。
生産者の中には、どうしてもピンク種を残されないのか?などの要望もあったが、
将来的に品質を最優先した決断であった。
徹底した系統選抜
福地ホワイト種の種子用向けを徹底して系統選抜した。
まだ、新米職員でしたが、当時りんご冷蔵庫の下屋で、故田川正にんにく生産部会副部会長が中心となって、生産者が運んでくる種子向けの出荷品を厳しく検査した。
種子用向けは高価格で手取りが多いので、誰でも種子用向けとして販売したいのです。
出荷した生産者一人一人に、
「お前の種は・・・こうだから種として残されない、全部市場に出せ!」
「この種は良い。」
と、徹底して厳選した。
今では想像かつかないほどの厳しい対応だ。
だから、田子には良い種だけが揃って栽培されることになる。
これが後に、にんにく戦国時代を勝ち抜き、全国の市場から
「田子のにんにくは違う!」
と、言わしめた礎である。
生産活動と教育活動の理念とビジョン
しっかり確実に動き始めた。