昭和50年 やったぞ、日本一を名乗る!
「組合長!にんにく日本一を名乗りたいのですが、良いでしょうか?」
昭和50年秋の頃、まだ残暑が漂う日でした。
りんご冷蔵庫から農協事務所に帰る途中の旧有線放送事務所前付近にて、
「組合長、”にんにく日本一”の名乗りを挙げたいのですが!よろしいでしょう か?」
と、組合長に直訴しました。
(その当時、若干24才の新米職員川村です。ここに至るまでは数々のドラマがありますが、これから少しずつ紹介して参りたいと思いま す。)
村木満組合長は、優しそうな眼差しで、「いいよ、やんなさい!」と返事をしてくれました。
私は、
「品質では日本一の東京青果の折り紙つきで問題ありませんが、数量では、僅かの差で北海道常呂農協を抜きました。もしかすれば北海道から尋ねてくるかもしれませんので、その時の対応はお願いします。」
と言うと、
「良いよ、やんなさい!」
と、答えてくれました。
そして予想通り、確か数ヶ月後に、北海道常呂農協から、3~4名が参りました。
その時、上長が不在だったため、農協組合長室で対応したのが、私 (若造)一人だけ。
色々文句があるのかな?と、思いきや、様々苦労した出来事など話されていました。
私は、日本一を名乗ったことについて、ありのままをお話ししました。
話しを終え、玄関でお見送りをし、先方がタクシーに乗って帰った瞬間、
「やった!日本一だ!」
心の中で大声で叫びました。
「日本一を名乗る」直訴には理由があったのです。
私には、夢がありました。
それは、「りんごで日本一になること」。
りんごで”日本一の東京青果”で最高価格を出すこと!が、夢でした。
目的が「りんご」から「にんにく」へ変わりましたが、遂に夢が叶ったこととなります。
当時は、私は若干24才でした、新婚2年目での出来事です。
新婚時代とは言え、町営住宅に住んでいた自宅には、連日誰かが押しかけてきていました。
特に、故中村萬にんにく生産部会長はよく来ていました。
確か、1週間に2~3回ほどは来ていたと思います。
また、青果市場の担当者、東京青果、淀橋青果、東京中央青果など狭い住宅でしたがよく来ました。
もちろん、生産部会の生産者もよく来ましたが、残念ながら、すでに故人となった方がほとんどです。
余談ですが、歴代農協職員の自宅に押しかけて来た生産者・市場関係者の人数が一番多いは我が家ではないでしょうか。
農協青年部の事務局も担当したこともあり、よく農業・農協談義が飛び交いました。
連日、入り浸りの生産者もいましたが、私の奥さんが一生懸命対応してくれたこと感謝しています。
故中村萬初代にんにく生産部会長と取材を受けたときの写真です。
ここでは、正しい歴史認識のため、田子町農業協同組合の業務報告書を掲載することとします。
昭和50年度事業報告書の「にんにく」の中に、名実ともに日本一の記載があります。
故小笠原弘参事は、「歴史を正しく伝えたい」という意識がありましたので、農協業務報告書ではしっかり掲載されました。
しかし残念ながら、今まで、よく誤った掲載がされているのを見かけました。
多分、当時担当した方々が、
「自分の手柄」
「自分がやった」
ということにしたかったと思います。
しかし、歴史は正しく伝えなければならないと思います。