青森県産業技術センター「農産物加工研究所」と連携して、
「琥珀にんにく」の高品質な商品づくりに取り組んでいます。
地域ブランド「たっこにんにく」の更なるブランド価値を高めたい!
と、言う気持ちで、いつも挑戦し続けています。
青森県産業技術センター「農産加工研究所」にて
地域が元気に、地域を元気に!
頑張れ、頑張れ。
青森県産業技術センター「農産物加工研究所」と連携して、
「琥珀にんにく」の高品質な商品づくりに取り組んでいます。
地域ブランド「たっこにんにく」の更なるブランド価値を高めたい!
と、言う気持ちで、いつも挑戦し続けています。
青森県産業技術センター「農産加工研究所」にて
地域が元気に、地域を元気に!
頑張れ、頑張れ。
最近のにんにくの飼育状況ですが、
昨年の秋に植え付けした、にんにくはすくすくと育っていましたが、(最後の写真参照)
じっと厳しい冬の中、懸命に耐えてきました。
雪解けと、ともに姿を見せた「にんにく」は、とても痛々しい姿です。
日一日と回復している”生命力”には、驚きと感動を覚えます。
雪の中から、痛んだ葉にはよく頑張ったね。(^^)
抱きしめてあげたいくらい。↓
にんにくの生命力は、誰にも負けない強さがあります。↓
9月に植え付けして、すくすく育っていました。
このあと、厳しい冬を迎えて、雪の中、じっと耐えて忍んで春を待っていたのです。
平成12年11月30日
平成12年12月8日
田子かわむらアグリサービスのホームページとショッピングサイトをリニューアルしました!
ホームページはコチラ
オンラインショップは会員登録ができて便利になりました!
https://www.takkoagri.com/shop/
住所などの入力の手間が大幅に減りますのでみなさん是非会員登録してください
ね。
※会員登録は無料です。
会員登録はこちら
https://www.takkoagri.com/shop/entry/kiyaku.php
今後とも、ごひいきによろしくお願い致します。
理念とビジョンがとても重要です。
「田子にんにく」のブランド化には、
いつも、生産者と市場関係者とともに、
理念と目標・ビジョンを共有してきました。
だから、いつも熱く語る人たちがいたのです。
そこには、希望がありました。
困難な状況でも光明があったのです。
だから、いつも夢が叶う!
ことができた。
理念もビジョンもないと、そこには、迷路があるだけ。
この先どうなるのか?先が見えない、
だから、
不平、不満、愚痴、嘆きが聞こえる。
ただ、諦め感が漂って、時が過ぎるだけ。
野球のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で、
私たちに感動を与えてくれた、井端弘和選手をご存じでしょうか?
1点リードされる展開で迎えた九回2死二塁。
敗色濃厚だったチームを土壇場で救う起死回生の一打、
井端選手は37才のベテラン。
試合前、相手投手のシュートが苦手でした。
その攻略にむけてもの凄い地道な努力があったと言う。
かつて、
シュートを武器としていた先人・投手から直接学び攻略法を勉強したと言う。
先人から学ぶ。
歴史に学ぶ。
このことが、とても重要なことです。
理念とビジョン!
熱く語る人に戦略がある。
だから、夢が叶う!
今こそ、歴史に学べばいい。
ホームページを訪れて頂きました皆さんに、
喜んで頂けるようにしたいと思います。
少しずつですが、
みなさまに、驚き、感動をお伝えできればと願っています。
みなさまの暖かい、ご支援のほどお願い申し上げます。
自治会活動の一環として、3月7日、「にんにくの町」にんにくの首都(ガーリックセンター)において、
地域の高齢者世代を対象にした「にしたてのふれあいサロン」を開催しました。
この「ふれあいサロン」は、自治会が社会福祉協議会の支援を頂いて、一人暮らしの高齢者の方々や地域の高齢者の方々を対象に、家に閉じこもってばかりいないで、地域の皆さんとお茶しながらふれあう集まりっこ(サロン)です。
私は、自治会会長と民生委員を担っていますが、災害が発生した場合に、お互いが助け合い・支え合う地域の「絆」が大変重要なことだと感じています。
昨今、自分さえ良ければ、と言う風潮がありました。しかし、私たちは、3.11の東日本大震災で多くのことを学んだと思います。その教訓をいかしことがとても大事です。そして、次の世代に引き継いで行きたいものです。
それは、私たちが「忘れてきたものを取り戻す」ことです。ずっと昔は、みんなが助け合い、支え合って生活してきました。その心を私たちは忘れてきたような気がします。
私たちの自治会では、ここに住んで良かった!と、言えるような活動を理念としています。
地域の抱える課題は、「高齢者」と「子ども」の問題です。地域の子どもは地域で育てる環境。地域の高齢者の見守り、声かけなど日常的にあたりまえにできないのか。
また、地域において、地域の防災と福祉は両輪の如く、とても重要なことと思います。
このような、地域の問題・課題はありますが、「にしたてのふれあいサロン」活動によって、お互いが顔を知る。お互いが話すことで絆が生まれてほしい。そう願って日々の活動を行っています。
奇しくも、青森県が「平均寿命ワースト1位」という汚名が報道されました。
地域では日々、保健推進員の方々が健康診断の呼びかけなど奮闘しています。
今回のふれあいサロンでも多くの方々に参加の呼びかけしつつ、会場のガーリックセンターまでしっかりサポートしています。
感謝!感謝です。
ふれあいサロンでは、町の保健師さんを講師にお願いして、健康について学ぶ、思いっきり笑う、楽しく食べる・・・。
そしてさいごに、大きな声を出して、朧月夜、ふるさとを合掌しました。
お隣に座った85才のトメさんは、よその地域のお友達から羨ましがられているよ。と、喜んでいました。
会場では、~こんどトメさんの88才の誕生会をしよう!と、提案されました。
長生きしなければ、トメさんの88才まで元気で生きる目標ができました。
~平均寿命ワースト1位~汚名返上の貢献してほしいです。
ここに住んで良かった。
一人でも多くの人がそう思える地域づくりを目指して、こらからも、「琥珀にんにく」を飲んで地域活動を頑張っていきます。
昭和50年秋の頃、まだ残暑が漂う日でした。
りんご冷蔵庫から農協事務所に帰る途中の旧有線放送事務所前付近にて、
「組合長、”にんにく日本一”の名乗りを挙げたいのですが!よろしいでしょう か?」
と、組合長に直訴しました。
(その当時、若干24才の新米職員川村です。
ここに至るまでは数々のドラマがありますが、これから少しずつ紹介して参りたいと思いま す。)
村木満組合長は、優しそうな眼差しで、「いいよ、やんなさい!」と返事をしてくれました。
私は、
「品質では日本一の東京青果の折り紙つきで問題ありませんが、
数量では、僅かの差で北海道常呂農協を抜きました。
もしかすれば北海道から尋ねてくるかもしれませんので、その時の対応はお願いします。」
と言うと、
「良いよ、やんなさい!」
と、答えてくれました。
そして予想通り、確か数ヶ月後に、北海道常呂農協から、3~4名が参りました。
その時、上長が不在だったため、農協組合長室で対応したのが、私 (若造)一人だけ。
色々文句があるのかな?と、思いきや、様々苦労した出来事など話されていました。
私は、日本一を名乗ったことについて、ありのままをお話ししました。
話しを終え、玄関でお見送りをし、先方がタクシーに乗って帰った瞬間、
「やった!日本一だ!」
心の中で大声で叫びました。
「日本一を名乗る」直訴には理由があったのです。
私には、夢がありました。
それは、「りんごで日本一になること。」
りんごで”日本一の東京青果”で最高価格を出すこと!が、夢でした。
目的が「りんご」から「にんにく」へ変わりましたが、遂に夢が叶ったこととなります。
当時は、私は若干24才でした、新婚2年目での出来事です。
新婚時代とは言え、町営住宅に住んでいた自宅には、連日誰かが押しかけてきていました。
特に、故中村萬にんにく生産部会長はよく来ていました。
確か、1週間に2~3回ほどは来ていたと思います。
また、青果市場の担当者、東京青果、淀橋青果、東京中央青果など狭い住宅でしたがよく来ました。
もちろん、生産部会の生産者もよく来ましたが、残念ながら、すでに故人となった方がほとんどです。
余談ですが、歴代農協職員の自宅に押しかけて来た生産者・市場関係者の人数が一番多いは我が家ではないでしょうか。
農協青年部の事務局も担当したこともあり、よく農業・農協談義が飛び交いました。
連日、入り浸りの生産者もいましたが、私の奥さんが一生懸命対応してくれたこと感謝しています。
ここでは、正しい歴史認識のため、田子町農業協同組合の業務報告書を掲載することとします。
昭和50年度事業報告書の「にんにく」の中に、名実ともに日本一の記載があります。
故小笠原弘参事は、「歴史を正しく伝えたい」という意識がありましたので、
農協業務報告書ではしっかり掲載されました。
しかし残念ながら、今まで、よく誤った掲載がされているのを見かけました。
多分、当時担当した方々が、
「自分の手柄」
「自分がやった」
ということにしたかったと思います。
しかし、歴史は正しく伝えなければならないと思います。
当時「にんにく」は、りんご冷蔵庫の片隅で作業をしていました。
出荷先は、りんごの取引市場である、
が主でした。
農協全体の取扱高で見れば、にんにくは種子販売額が全体を占めており、市場に出回る量が少なかったのです。
(にんにくとの出会い!参照)
それが、突然市場に出回る数量が増大したことから、新たな販売の道を拓かなければなりません。
今までの販売方法では通用しませんでした。
そこに、にんにく担当と言う白羽の矢が立ったのですから、チャンス到来です!
いう封印していた夢の実現が突如として現れました。
りんごがにんにくに変わっただけだ、とにかく自分の意志で東京青果に出荷したい。
新しい販売の道を歩むことにしました。
東京青果へのルートは、経済連を経由してスタートしました。
それ以前は、りんご同様の個選出荷でした。
個人個人の屋号が目印なのです。
ですので、個人個人の市場での売値が違います。
しかし、このような出荷形態では対応できないことから、
の歴史的な第一歩を踏み出すことになります。
運命的な人との出会いもありました。
東京青果の担当者笹田寛明氏との出会いがそれでした。
また、経済連手塚氏との出会いもありました。
そして昭和48年、初めて東京青果に出荷を始めました。
ここでやっと、「夢の実現に向かって」一歩道を拓きました。
にんにく生産部会が結成されて大きな決断をした。
それは、品種の統一と系統選抜である。
にんにくの品種はホワイト種とピンク種が栽培され、
ホワイト種でも福地ホワイト種と岩木ホワイトなど栽培された。
そこで、
が議論された。
生産者の中には、どうしてもピンク種を残されないのか?などの要望もあったが、
将来的に品質を最優先した決断であった。
福地ホワイト種の種子用向けを徹底して系統選抜した。
まだ、新米職員でしたが、当時りんご冷蔵庫の下屋で、
故田川正にんにく生産部会副部会長が中心となって、生産者が運んでくる種子向けの出荷品を厳しく検査した。
種子用向けは高価格で手取りが多いので、誰でも種子用向けとして販売したいのです。
出荷した生産者一人一人に、
「お前の種は・・・こうだから種として残されない、全部市場に出せ!」
「この種は良い。」
と、徹底して厳選した。
今では想像かつかないほどの厳しい対応だ。
だから、 田子には良い種だけが揃って栽培されることになる。
これが後に、にんにく戦国時代を勝ち抜き、全国の市場から
「田子のにんにくは違う!」
と、言わしめた礎である。
生産活動と教育活動の理念とビジョン
しっかり確実に動き始めた。
昭和47年秋、農協での配属先は、生産課・米担当でした。
この米担当が嫌で嫌で、
「早くりんご担当に異動させてほしい。」
と、組合長や上司に直訴・アピールしていました。
今では考えられないことですが、とにかく、りんごをやりたくて農協に入った訳ですから、
「りんごで日本一になりたい!りんごの担当をやらせて下さい!」
といつもアピール・直訴していたと思います。
もちろん、米担当として仕事をおろそかにしていた訳ではありません。
政府指定倉庫として米倉庫の温度・湿度など記録して保管管理台帳の整備は一生懸命やりました。
どうして、米担当が嫌かと言えば、
「米は政府に守られた価格が嫌だ!競争で勝たなければ!」
と言う変なハングリー精神??をいつも抱いていました。
価格競争に勝ち抜いて日本一になる!その一心でした。
そんなある時、生産課の栗木さん(当時係長)が米倉庫に来まして、
「川村!にんにくをやってほしい。」
と、告げられました。
まったく無名の「にんにく」に一瞬とまどい、心境は、「えっ?!」と、いう感じでした。
それを察したのか栗木さんは、
「川村、にんにくは、りんご冷蔵庫の下屋で作業するがら、にんにくをやっていれば、りんごを見られるぞ!」
という言葉に直ぐ、「やらせて下さい!」と即答しました。
これが、「にんにく」との出会いとなるのです。
農協に入組して、新人職員として農協理事会に挨拶を行いました。
理事会は、農協2階会議室で行われています。
緊張して自己紹介をすると、一番奥でニコニコしていた方が、故中村萬氏(にんにく生産部会長)でした。
故中村萬さんとは、後に「にんにく生産部会長と事務局」としてのコンビを組むわけですが、故中 村萬さんと最初の出会いは、農協に入る前年度の農協通常総会でした。
その時も、ニコニコした顔でやさしく声をかけて頂いたこと思い出されます。
私が担当する前年度である、昭和47年度のにんにく取扱量は112トンで種子販売が32%を占めていた。
うち市場用向けは79トンだけであった。
にんにくの取り扱いは、生産者からの種子を生産者に斡旋することが主な業務でした。
それが、私が担当した初年度、昭和48年度の取扱量は、393トンと一気に351%も増加したのです。
にんにく取り扱い業務は、種子向けの斡旋からの市場向け販売へと歴史的な大きな変化があったのです。
ここからが、ドラマの始まりとなるのです。(笑)
また、市場向けの取扱数量は、79トンから、290トンへと367%の急増し、
若い農協職員の肩にどっしりとかかってきました。
ちなみに、昭和47年度は、結婚した年でした。
昭和46年、農協から「農協で働かないか?」とお誘いがありました。
しかし、その時は、りんごで東京青果で日本一!と言う夢があり、人づてに お断りしました。
すると翌年にまた、農協に来てほしい、と言う話がありました。
正直、「またか・・・」と思いつつ、再度人づてにお断りすることに致しました。
余談ですが、中学時代は、叔父の山本栄一から帰りに
「出荷組合や商店に寄ってりんごの農薬を持ってこい!」
と、よく頼まれました。
当時はりんごの 出荷組合が盛んで、日本一の夢が具体的になったのは、叔父の山本栄一が印度という品種で東京青果で最高価格を出したことでした。
このことがきっかけとなり後に、自分も 「東京青果でりんごで最高価格を出したい!」という夢が芽生えたのです。
当時は農協の存在をよく知りませんでした。
数日して、農協からまた話があるので来てほしいと言うので出かけていくと、ここに行ってほしいと場所を指定された所が、田子小学校の裏の畑だったのです。
そこでは、にんにくの講習会が開催されていました。
待っていたのは、当時生産課長の杉崎 孝雄氏でした。
杉崎氏は、優しそうなまなざしで、講習会の風景を見せてから、
「このようなことを農協に来て一緒にやってほしい。」
と、話されました。
故小笠原 弘氏ともお話をしましたが、農業・農村などお話しの中で、不思議と考えが同じだなぁと感じていました。
しかし、そこからが「悩み・葛藤」の連続でした。
私は、岩手県立浄法寺経営伝習農場の全寮制にて徹底したスパルタ教育?で学び、
これからの農は、技術 だ、腕だ!と意気込んでいましたので、
農協に勤めることは、「りんごで日本一になる。」という夢をあきらめること。
途中で挫折すること。と思っていたので す。
「自分の夢を実現したい!」
農協には勤めたくないが、農協からの誘いで悩みました。
そこで、学んだ岩手県二戸市(旧浄法寺町)の恩師を何度も、何度も訪ねることになりました。
夢をあきらめて挫折する敗北感のような気持ちが抜けきれずにいたので、
故西田場長のもとには3回~4回だったと思います。
それほど悩んでいました。
ある時また、相談に行くと、故西田場長が不在でその時に対応した一本木先生(牛の手術などで尊敬)は、
「川村君、2~3年勉強のつもりで行く のも良いのでは?」
と、この言葉で気持ちが軽くなりました。
そっか、勉強のつもりで行けば良いんだ。
数日して再度、故西田先生にお会いして、その話をすると、
「勤めるなら、生活面で将来のこと考えて役場が良いのでは?
役場にお話しして上げましょうか?」
と、いうことでした。
しかし、生意気にも、
「先生、 私は給料が安くても、勤めるなら農業・生産者のためなりたいです!」
と、ハッキリ意志を伝えました。
そこでやっと、農協にお世話になる決心しました。
「プラウは錆びても心は錆びぬ」
同じ釜の飯を食べた友の言葉を胸に秘めながら帰路についたのです。
決心するまでに、農協から故小笠原弘参事と杉崎孝雄課長が何度も自宅に来ていただきました。
私は丁度その時は、ハウスでイチゴ栽培を行っていましたのでハウスで会いましたが、
これからの田子農業・田子農協を一緒にやろうとお話しいただきました。
ここで一つ気づきました。
故小笠原弘参事がお話されることは、浄法寺経営伝習農場で学んだことと同じ考えだったのです。
これからの農業農村には、
・・・つまり、故西田場長から叩き込まれてきたことと、「同じ理念とビジョン」ということを感じました。
故西田場長は、何度か田子町を訪れて講演しており、農業・農村のこれから歩むべき方向を指導していたのです。
田子町農協は、長野県から学び、昭和44年度(昭和45年1月)に長期農業振興計画(5ヶ年計画)を樹立したばかりでした。
学んだ農業・農村理念と農協が樹立した理念・ビジョンが偶然にも一緒で同じ考えだったのです。
この、第1次農業振興計画が後に、田子農業の維新とも言える歴史的な幕開けとなりました。
(余談ですが、樹立2年目からの参 加となりましたが、第2次振興計画(3ヶ年)、第3次振興計画(3ヶ年)に携わることができまして、ここの約10ヶ年で田子町農協の基礎が土台が固まった と思います。)
やがて、
「農協から話があるのできてほしい。」
と言われて伺うと、農協の2階に通され、対応した藤田仁管理課長が、
「川村君の給料は高卒とみなしま すので21,000円です。」
と、告げられました。
因みに、その時の私の身だしなみと言えば、作業服にタオルを首に巻いているようなラフな格好でした。
農協の2階から降りる途中、階段の勾配が急だなぁと感じたのは、これからの前途を暗示していたようでもありました。
田子町農業協同組合
生産者が必要としている施設を優先する。
という考えの基、農協の建物はびっくりするほど古い。
しかし、そこには誇りがあった。
私は、田子町の農業維新と勝手に定義づけています。
田子町農協では、昭和45年1月~第1次5ヶ年農業振興計画~を樹立しました。
この理念とビジョンは、教育活動と生産活動による農家所得の向上のために設定しました。
地域複合経営を唱え、農家個々にはモデル営農類型を掲げて取り組んできました。
その”原動力”として、昭和45年3月19日、部会員62名で生産部会組織を結成し、にんにく生産部会はスタートしました。
振興計画樹立まで約2ヶ年かけて先進事例として長野県を学んだと言われています。
長野県にあって田子にないもの、それは「教育活動」と「産業活動」でした。
農協も大きく変化しました。
それまでの金融中心のビジネスから、生産活動が前面に出てきました。
まで、概ね10ヶ年 で田子町農業の盤石な礎が築かれました。
私は、幸運にも第1次振興計画から参加することができました。
そして、第2次振興計画からは、若造でありながら、故小笠原 弘参事と一緒に計画に着手できたこと誇りに思っています。
余談ですが、後に、日本一となった昭和50年頃から視察が多く訪れて参りました。
その時のひそひそ話で、視察者の方々は、
と、話していることをよく耳にしました。
内心これで一歩先に行ける。そう思ったものです。
常に、意識していたことは、自分で作る、にんにく生産部会の資料は日本一に恥じないものをつくる。
日本一にふさわしい、誇りがもてる活動をすることでした。
当時、県、試験場、普及センターなどに出向いた先々で資料を読みあさりました。
獲物を狙うハンターのようにどん欲でした。
そして、生産部会の資料は、どこにも負けない分かり易く、レベルが高いものをめざしていました。
そしてその結果、
「にんにく部会の役員会には欠席できない!欠席すると遅れる。」
と、役員から言われるようになりました。
このような声が大きな励みでもあ りました。
こんにちは。
青森市のアスパム(1F)の売り場コーナーのご紹介です。
JAグループが誇る「アグリショップ」で「琥珀にんにく」がお世話になっています。
「琥珀にんにく」
「琥珀にんにくパウダー」
「琥珀にんにくスライス」
「プロテオグリカン配合琥珀にんにくカプセル」
「琥珀にんにく地サプリ」がお買い求め頂けます。
どうぞ、よろしくお願いします。
青森市さくら野百貨店1Fのアレッラさんの売り場です。
プロテオグリカン配合琥珀にんにくカプセル
プロテオグリカン配合琥珀にんにくスキンケアーソープ
どうぞ、お試し下さい。
青森市の東端、「北の熱海」の異名を持つ北東北きっての繁華な温泉地。
「浅虫温泉駅」駅の東側は古くからの温泉街。
特に、展望風呂やショッピングセンターを完備した道の駅「ゆ~さ浅虫」では、お買い物が満喫できます。
ここでは、琥珀にんにくがお買い求め頂けます。
青森県産業技術センター「農産物加工研究所」にて
常に、高品質な商品づくりを目指しています。
日本一のトップブランドを目標に歩んできた、経験と実績を活かして、新たな商品づくりへの挑戦です。
常に、挑戦する気持ちを忘れない。
常に、最高な品質を目標にする。
その、姿勢は変わらず持ち続けて参ります。
プロとは、苦しみ続ける能力を持った人。
青森県が誇る、独立行政法人青森県産業技術センターのフォーラムにて、
産業技術センターと連携した取り組み事例として、発表を依頼されました。
日時:平成25年2月18日(月) 13:00~17:00
会場:青森グランドホテル
「琥珀にんにく」シリーズの商品化について、お話しさせて頂きます。