田子農業の維新
私は、田子町の農業維新と勝手に定義づけています。
田子町農協では、昭和45年1月~第1次5ヶ年農業振興計画~を樹立しました。
この理念とビジョンは、教育活動と生産活動による農家所得の向上のために設定しました。
地域複合経営を唱え、農家個々にはモデル営農類型を掲げて取り組んできました。
その”原動力”として、昭和45年3月19日、部会員62名で生産部会組織を結成し、にんにく生産部会はスタートしました。
振興計画樹立まで約2ヶ年かけて先進事例として長野県を学んだと言われています。
長野県にあって田子にないもの、それは「教育活動」と「産業活動」でした。
農協も大きく変化しました。
それまでの金融中心のビジネスから、生産活動が前面に出てきました。
- 第1次5ヶ年農業振興計画(S45~S49)
- 第2次農業振興計画(S50~S52)
- 第3次農業振興計画(S53~S55)
まで、概ね10ヶ年 で田子町農業の盤石な礎が築かれました。
私は、幸運にも第1次振興計画から参加することができました。
そして、第2次振興計画からは、若造でありながら、故小笠原 弘参事と一緒に計画に着手できたこと誇りに思っています。
余談ですが、後に、日本一となった昭和50年頃から視察が多く訪れて参りました。
その時のひそひそ話で、視察者の方々は、
と、話していることをよく耳にしました。
内心これで一歩先に行ける。そう思ったものです。
常に、意識していたことは、自分で作る、にんにく生産部会の資料は日本一に恥じないものをつくる。
日本一にふさわしい、誇りがもてる活動をすることでした。
当時、県、試験場、普及センターなどに出向いた先々で資料を読みあさりました。
- どんな資料を作っているのか!
- 分かり易いグラフ・データなど何か参考になるものがないか!
獲物を狙うハンターのようにどん欲でした。
そして、生産部会の資料は、どこにも負けない分かり易く、レベルが高いものをめざしていました。
そしてその結果、
「にんにく部会の役員会には欠席できない!欠席すると遅れる。」
と、役員から言われるようになりました。
このような声が大きな励みでもあ りました。
にんにく日本一の軌跡一覧
- 昭和45年 田子町の農業維新!
- 昭和46年 農協からのお誘いが
- 昭和47年 にんにくとの出会い!
- 昭和48年 品種の統一を決断&厳しい系統選抜
- 昭和48年 東京青果へ初出荷
- 昭和50年 やったぞ、日本一を名乗る!
- スクランブル発進!私の流儀。
- 深耕