昭和46年 農協からのお誘いが

 昭和46年、農協から「農協で働かないか?」とお誘いがありました。

 しかし、その時は、りんごで東京青果で日本一!と言う夢があり、人づてに お断りしました。

 すると翌年にまた、農協に来てほしい、と言う話がありました。

 正直、「またか・・・」と思いつつ、再度人づてにお断りすることに致しました。

 

  余談ですが、中学時代は、叔父の山本栄一から帰りに

 「出荷組合や商店に寄ってりんごの農薬を持ってこい!」

 と、よく頼まれました。

 

 当時はりんごの 出荷組合が盛んで、日本一の夢が具体的になったのは、叔父の山本栄一が印度という品種で東京青果で最高価格を出したことでした。

 このことがきっかけとなり後に、自分も 「東京青果でりんごで最高価格を出したい!」という夢が芽生えたのです。

 当時は農協の存在をよく知りませんでした。

 

 

 

 数日して、農協からまた話があるので来てほしいと言うので出かけていくと、ここに行ってほしいと場所を指定された所が、田子小学校の裏の畑だったのです。

 そこでは、にんにくの講習会が開催されていました。

 

 待っていたのは、当時生産課長の杉崎 孝雄氏でした。

 杉崎氏は、優しそうなまなざしで、講習会の風景を見せてから、

 「このようなことを農協に来て一緒にやってほしい。」

 と、話されました。

 故小笠原 弘氏ともお話をしましたが、農業・農村などお話しの中で、不思議と考えが同じだなぁと感じていました。

 

 

 

 しかし、そこからが「悩み・葛藤」の連続でした。

 私は、岩手県立浄法寺経営伝習農場の全寮制にて徹底したスパルタ教育?で学び、

 これからの農は、技術 だ、腕だ!と意気込んでいましたので、

 農協に勤めることは、「りんごで日本一になる。」という夢をあきらめること。

 途中で挫折すること。と思っていたので す。

 
  

 「自分の夢を実現したい!」

 農協には勤めたくないが、農協からの誘いで悩みました。

 

 そこで、学んだ岩手県二戸市(旧浄法寺町)の恩師を何度も、何度も訪ねることになりました。

 夢をあきらめて挫折する敗北感のような気持ちが抜けきれずにいたので、

 故西田場長のもとには3回~4回だったと思います。

 それほど悩んでいました。

 

 

 

 ある時また、相談に行くと、故西田場長が不在でその時に対応した一本木先生(牛の手術などで尊敬)は、

 「川村君、2~3年勉強のつもりで行く のも良いのでは?」

 と、この言葉で気持ちが軽くなりました。

 そっか、勉強のつもりで行けば良いんだ。

 

 数日して再度、故西田先生にお会いして、その話をすると、

 「勤めるなら、生活面で将来のこと考えて役場が良いのでは?

 役場にお話しして上げましょうか?」

 と、いうことでした。

 

 しかし、生意気にも、

 「先生、 私は給料が安くても、勤めるなら農業・生産者のためなりたいです!」

 と、ハッキリ意志を伝えました。

 そこでやっと、農協にお世話になる決心しました。

 

 「プラウは錆びても心は錆びぬ」

 

 同じ釜の飯を食べた友の言葉を胸に秘めながら帰路についたのです。

 

 

 

 決心するまでに、農協から故小笠原弘参事と杉崎孝雄課長が何度も自宅に来ていただきました。

 私は丁度その時は、ハウスでイチゴ栽培を行っていましたのでハウスで会いましたが、

 これからの田子農業・田子農協を一緒にやろうとお話しいただきました。

 

 ここで一つ気づきました。

 故小笠原弘参事がお話されることは、浄法寺経営伝習農場で学んだことと同じ考えだったのです。

 これからの農業農村には、

 

  • 農民教育が大切なこと
  • 土づくりが大切なこと
  • 農民の組織づくりが大切なこと

 

 ・・・つまり、故西田場長から叩き込まれてきたことと、「同じ理念とビジョン」ということを感じました。

 

 故西田場長は、何度か田子町を訪れて講演しており、農業・農村のこれから歩むべき方向を指導していたのです。

 田子町農協は、長野県から学び、昭和44年度(昭和45年1月)に長期農業振興計画(5ヶ年計画)を樹立したばかりでした。

 

 学んだ農業・農村理念と農協が樹立した理念・ビジョンが偶然にも一緒で同じ考えだったのです。

 この、第1次農業振興計画が後に、田子農業の維新とも言える歴史的な幕開けとなりました。

 

 (余談ですが、樹立2年目からの参 加となりましたが、第2次振興計画(3ヶ年)、第3次振興計画(3ヶ年)に携わることができまして、ここの約10ヶ年で田子町農協の基礎が土台が固まった と思います。)

 

 

 

 やがて、

 「農協から話があるのできてほしい。」

 と言われて伺うと、農協の2階に通され、対応した藤田仁管理課長が、

 「川村君の給料は高卒とみなしま すので21,000円です。」

 と、告げられました。

 因みに、その時の私の身だしなみと言えば、作業服にタオルを首に巻いているようなラフな格好でした。

 

 農協の2階から降りる途中、階段の勾配が急だなぁと感じたのは、これからの前途を暗示していたようでもありました。

 

田子町農業協同組合

田子町農業協同組合

生産者が必要としている施設を優先する。

という考えの基、農協の建物はびっくりするほど古い。

しかし、そこには誇りがあった。

 

>>続く



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