農協の職員に!
昭和47年秋、農協での配属先は、生産課・米担当でした。
この米担当が嫌で嫌で、
「早くりんご担当に異動させてほしい。」
と、組合長や上司に直訴・アピールしていました。
今では考えられないことですが、とにかく、りんごをやりたくて農協に入った訳ですから、
「りんごで日本一になりたい!りんごの担当をやらせて下さい!」
といつもアピール・直訴していたと思います。
もちろん、米担当として仕事をおろそかにしていた訳ではありません。
政府指定倉庫として米倉庫の温度・湿度など記録して保管管理台帳の整備は一生懸命やりました。
どうして、米担当が嫌かと言えば、
「米は政府に守られた価格が嫌だ!競争で勝たなければ!」
と言う変なハングリー精神??をいつも抱いていました。
価格競争に勝ち抜いて日本一になる!その一心でした。
にんにくの担当!
そんなある時、生産課の栗木さん(当時係長)が米倉庫に来まして、
「川村!にんにくをやってほしい。」
と、告げられました。
まったく無名の「にんにく」に一瞬とまどい、心境は、「えっ?!」と、いう感じでした。
それを察したのか栗木さんは、
「川村、にんにくは、りんご冷蔵庫の下屋で作業するがら、にんにくをやっていれば、りんごを見られるぞ!」
という言葉に直ぐ、「やらせて下さい!」と即答しました。
これが、「にんにく」との出会いとなるのです。
農協に入組して、新人職員として農協理事会に挨拶を行いました。
理事会は、農協2階会議室で行われています。
緊張して自己紹介をすると、一番奥でニコニコしていた方が、故中村萬氏(にんにく生産部会長)でした。
故中村萬さんとは、後に「にんにく生産部会長と事務局」としてのコンビを組むわけですが、故中 村萬さんと最初の出会いは、農協に入る前年度の農協通常総会でした。
その時も、ニコニコした顔でやさしく声をかけて頂いたこと思い出されます。
私が担当する前年度である、昭和47年度のにんにく取扱量は112トンで種子販売が32%を占めていた。
うち市場用向けは79トンだけであった。
にんにくの取り扱いは、生産者からの種子を生産者に斡旋することが主な業務でした。
それが、私が担当した初年度、昭和48年度の取扱量は、393トンと一気に351%も増加したのです。
にんにく取り扱い業務は、種子向けの斡旋からの市場向け販売へと歴史的な大きな変化があったのです。
ここからが、ドラマの始まりとなるのです。(笑)
また、市場向けの取扱数量は、79トンから、290トンへと367%の急増し、
若い農協職員の肩にどっしりとかかってきました。
ちなみに、昭和47年度は、結婚した年でした。
にんにく日本一の軌跡一覧
- 昭和45年 田子町の農業維新!
- 昭和46年 農協からのお誘いが
- 昭和47年 にんにくとの出会い!
- 昭和48年 品種の統一を決断&厳しい系統選抜
- 昭和48年 東京青果へ初出荷
- 昭和50年 やったぞ、日本一を名乗る!
- スクランブル発進!私の流儀。
- 深耕