りんごの片隅での作業
当時「にんにく」は、りんご冷蔵庫の片隅で作業をしていました。
出荷先は、りんごの取引市場である、
- 千葉東葛青果
- 横浜金港青果
- 千住青果
が主でした。
農協全体の取扱高で見れば、にんにくは種子販売額が全体を占めており、市場に出回る量が少なかったのです。
(にんにくとの出会い!参照)
それが、突然市場に出回る数量が増大したことから、新たな販売の道を拓かなければなりません。
今までの販売方法では通用しませんでした。
そこに、にんにく担当と言う白羽の矢が立ったのですから、チャンス到来です!
東京青果で日本一になりたい!
いう封印していた夢の実現が突如として現れました。
りんごがにんにくに変わっただけだ、とにかく自分の意志で東京青果に出荷したい。
新しい販売の道を歩むことにしました。
東京青果へのルートは、経済連を経由してスタートしました。
それ以前は、りんご同様の個選出荷でした。
個人個人の屋号が目印なのです。
ですので、個人個人の市場での売値が違います。
しかし、このような出荷形態では対応できないことから、
「個選出荷から共選出荷へ」
の歴史的な第一歩を踏み出すことになります。
運命的な人との出会いもありました。
東京青果の担当者笹田寛明氏との出会いがそれでした。
また、経済連手塚氏との出会いもありました。
そして昭和48年、初めて東京青果に出荷を始めました。
ここでやっと、「夢の実現に向かって」一歩道を拓きました。
にんにく日本一の軌跡一覧
- 昭和45年 田子町の農業維新!
- 昭和46年 農協からのお誘いが
- 昭和47年 にんにくとの出会い!
- 昭和48年 品種の統一を決断&厳しい系統選抜
- 昭和48年 東京青果へ初出荷
- 昭和50年 やったぞ、日本一を名乗る!
- スクランブル発進!私の流儀。
- 深耕